No.342  2014年6月29日

「黒田官兵衛の人生の転機」 中谷美津雄 牧師

「この男がいなければ豊臣秀吉の天下はなかった。戦国乱世がクライマックスを迎えたそのど真ん中に乱世を終わらせるために突如現れた稀代の天才軍師……。和歌や茶の湯を愛した文化人であり、敬虔なキリスト教徒として信仰を貫き、側室を持たずただ一人の妻と添い遂げた律儀な男。」(NHK公式ホームページ「軍師官兵衛」企画意図より)

キリスト教がザビエルにより日本に初めて伝えられたのが1549年。1612年の徳川幕府による教禁令発布の頃、キリシタン人口は50万人を数えるまでになっていたと言われます。当時の人口が1200~2200万人と推定されていますから、2.3~4.2パーセントに上ります。

黒田官兵衛は京都や自由都市堺で若い頃からキリスト教に触れ、関心を抱いていました。司馬遼太郎は、その著「播磨灘物語」で次のように記しています。「キリシタンの信仰と思想……僧侶たちが自分に課している厳格な戒律と敬虔さとそして他人に対するやさしさ、さらにいえばかれらが万里の波濤を冒してやってきた勇敢さといったようなもののすべてが官兵衛の心をとらえていた。」

官兵衛の人生の一大転機となったのは有岡城幽閉事件です。信長に反旗を翻した荒木村重を説得に行った有岡城で、官兵衛は捕らえられ投獄されてしまいます。劣悪な獄中の命も危うい生活が1年余続く中で、生きる希望を与えたのは、格子越しに見えた藤の花芽の成長する姿でした。その時の様子を司馬遼太郎はこう記しています。「その青い生きもののむこうに小さな天があり、天の光に温められつつ、伸びることのみに余年もない感じだった。官兵衛は、うまれてこのかた、生命というものをこれほどつよい衝撃で感じたことがなかった。その者は動く風のなかで光に祝われつつ、わくわくと呼吸しているようであり、さらにいえば、官兵衛に対して、生きよ、と天の信号を送り続けているようでもあった。官兵衛は神(デウス)を信じていた。しかしそれが神(デウス)の信号であると思う以上にごく自然な感動が湧きおこってしまっている。官兵衛という生きた自然物が、他の生命から生きることをはげまされているという感じであり、その感動が重なり重なって、そのことに馴れてから(これは神の御心ではないか)と、解釈するようになった。解釈が成立して、官兵衛の心が落ち着いた」 官兵衛の受洗はその5年後1583年のことでした。

 

人生に患難試練はつきものです。そんなとき、「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている(イザヤ40:27)」と、落ち込んだり、神に怒りをぶつけることがあります。有岡城に幽閉された官兵衛も主君に裏切られたという恨みから、神に不満を訴えても良かったでしょう。しかし、彼は逆に、その絶望的な逆境の中で光を見たのでした。明日は炉に投げ込まれる小さく弱い野の花にさえいのちを与え、いきいきと育んでくださる創造者なる神(デウス)からの光でした。イザヤは告げます。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」 花そのものではなく、花にいのちを与えられる主なる神に目を向けましょう。