NO.339 2014年3月30日

「聖餐式にあずかる恵み」  中谷美津雄 牧師

 

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。  (Ⅰコリント1126)

 

 

生駒めぐみ教会の聖餐式は、私が新卒補教師として赴任した1976年以来、関西ブロックの諸先生方の助けを得て、月一度、主日午後に行われてきました。1979年に正教師按手受領後も、礼拝後の聖餐式は慣例となり現在に至っています。因みに、説教による礼拝後に希望者に聖餐式を行う形態はルター派諸教会で通例行われているようです(キリスト教礼拝辞典)。

 

今年4月からは、第1主日の礼拝説教後に聖餐式を行うことに変更しました。その場合、未信者の方々が同席することをどのように考えるかが課題となります。イエス様が聖餐式を定められたのは、最後の晩餐の席上でしたから、そこには弟子たちの他には誰もいませんでした。それでは、聖餐式は信者だけが集まってするものとされていたのかというと、必ずしもそうではありません。コリントの教会宛に書送られたパウロの冒頭のみことばがそのことを明示しています。

 

当時コリントの教会の「主の晩餐」と呼ばれる聖餐式を伴う集まりが混乱していました。パウロは秩序回復のために聖餐式の起源と意味、その守り方等を手紙に書き送りました。

 

起源  パウロ自身は主の晩餐に同席しませんでしたが、「主から受けたこと(23)」と記すことで、その起源が人間的な権威にではなく、主にあることを明示しました。聖餐式は主イエスご自身が敵の手に渡されるその夜に定められた、遺言のように大切な命令でした。

 

意味  イエス様は手に取ったパンを祝福し、これを裂いて、「これはあなたがたのための、わたしのからだです」と言われ、「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言われました。パンをイエス様の十字架で裂かれたからだ、杯を流された契約の血と意味づけられたのです。

 

守り方  その上で、「わたしを覚えて、これを行いなさい(2425)」と言われました。「覚える」ということは、聖餐式でパンを食べ杯から飲む度に、イエス・キリストによる過去の贖いの事実を、現在を生きる者への恵みとして想起することです。そのことを「主が来られるまで」繰り返す。聖餐式は再臨の主による未来における贖いの完成に希望をつなぐ信仰告白の式でもあります。

 

宣教的な意味   聖餐式の起源と意味と守り方を述べた後、「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」とパウロは記しました。一体誰に告げ知らせるのでしょうか。もちろん未信者に対してでしょう。そうでれば、未信者が聖餐式に同席していることをこのみことばは明確に意識しているのです。

 

「これはあなたがたのための、わたしのからだです」と言って、パンが配られ、「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言って、杯が配られる。それを聞きながら、受け取ることができない。未信者の方は疎外感を抱くかもしれません。しかし、みことばが未信者の同席を前提にした聖餐式の持ち方を記しているのであれば、それは、排除するためではなく、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストをあなたは信じるかという、信仰のチャレンジのためでしょう。

 

執り成しの祈り  教団発行の聖餐式式文では、司式者が「招きのことば」で次のように告げます。「まだ、信仰を告白し、バプテスマを受けていない方は、聖餐を受けることはひかえるべきであります。救い主イエス・キリストを信じて、洗礼を受け、聖餐にあずかる日が一日も早く来るようにと祈ります。」 未信者の方の同席を前提にして、聖餐を受けるには信仰告白と洗礼が条件であることをその人たちに告げ、救いのために執り成し祈ることを表明して一定の配慮を示しているのです。信仰によって受ける聖餐式の恵みにあずかる人が起こされるように祈りましょう。