NO.336 2013年 12月29日

「全き道を行く幸いな人々」     中谷美津雄 牧師

幸いなことよ。

全き道を行く人々、

主のみおしえによって歩む人々。

             (詩篇119:1

 

主日礼拝の冒頭で、司会者が告げるのが招詞です。それは、私たちが神様を私たちの所にお迎えして礼拝するのではなく、神様が私たちを御許に招いてくださって礼拝することを宣言する恵みの詞です。2013年の主日礼拝の招詞は詩篇119:1-3でした。
「幸いなことよ」と、感嘆をもって祝福されるこのみことばを聞き、招いてくださる主に感謝して礼拝に臨むうちに、その祝福に値する歩みをしてきただろうかと、問われたことでした。 「全き道を行く人々」主のみおしえによって歩む人々。」と続きます。「全き道」とは、完全な道、欠けも誤りもない道のことです。そのように罪のない人がいたら、確かにその人は幸いに違いないとしても、果たしてあなたはどうなのかという問いかけでした。
信仰の父アブラハムは全き道を歩む幸いな人のモデルです。アブラムが神様の召しの御声を聞き、どこに行くのかを知らずに、故郷を出て行ったのは75歳のときでした。信仰の一歩を踏み出したのですが、その信仰は子が生まれなかったために試され、彼が86歳のとき、ついにエジプト人の女奴隷によって子を得ようという妻の提案にのり、イシュマエルを産みました。しかし、それは神様の御心ではなく、この世の知恵に過ぎなかったので、彼の家庭の秩序は乱れ、13年もの御声を聞けない悶々とした年月を過ごさねばなりませんでした。アブラムも全き道を歩んでいたとは言えない欠けある人でした。
神様の恵みに導かれて彼は全き信仰へと引き上げられ、成長したのでした。長年の沈黙を破って神様が語られたのは、彼が99歳、もはや子を生むことなど不可能になったときでした。そのとき神様は全能の神として彼に現れて「全き者であれ」と言われ、彼の名をアブラハムに、妻の名をサラに改名させ、サラがアブラハムに産む男の子イサクと契約を立てると言われて、そのしるしとして割礼を施されたのです。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ(創17:1)」
その後のアブラハムの歩みにも試練は続きました。中でも最大の試練は成長した最愛の子イサクを全焼のいけにえとして神様にささげるよう求められたことでした(創22:2)。アブラハムの心中の苦悩はどんなに大きかったことでしょうか。しかし、彼はみことばに従い、祭壇に息子をささげ、正に刀をふり下ろそうとしたときに、神様のみ声がかかって踏みとどまると、神様が備えていてくださった雄羊に気づいたのでした。アブラハムの信仰を試された神様に、アブラハムは全き信仰をもってお応えしたのでした。
全き道を行く幸いな人々とは誰でしょうか。辛く苦しい試練にあったとき、神様に不平や不満を抱き、人々に怒りを振り撒くのではなく、そのときには分からなくても後で分かるように隠されてある神の最善を信じ、黙して御心に従う人々です。
ヤコブのことばを聞きましょう。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)