NO.338 2014年 2月23日

「将来を背に、過去を見つめて」  中谷めぐみ伝道師

 

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

 

      (エレミヤ書2911)

 

 

私たちが生きていく上で、“将来”や“希望”というものはとても重要です。それらがなければ、人生は何の喜びもない、空しいものとなり、生きること自体が“わざわい”と感じられるでしょう。しかし、私たちの目から絶望的に感じられることであっても、それは神様による祝福のご計画かもしれません。

 

絶望の只中で語られた神のご計画   預言者エレミヤの時代、イスラエルは偶像礼拝等、神に喜ばれない生活を送っていました。彼らは、エレミヤを通して語られた神のさばきと警告の預言を拒絶し、いよいよバビロンの捕囚の民となりました。私たちは、この出来事を、いわゆる“天罰=わざわい”と考えがちです。しかし、これは神のご計画によると「わざわいではなくて…将来と希望を与えるためのものだ」というのです。

 

過去に見られる真実な神   大抵の場合、人は時の流れに沿い“将来”に目を向け“過去”を背に前進しています。しかし、イスラエル人は“過去”に目を向け“将来”を背に後進するのです。それは、「将来」(2911)と訳された「アハリート」という言葉が「後・後代・背中・背後」という意味を持つことから分かります。また、これは申命記等の他の箇所で何度も繰り返されている歩みでもあります。私たちは、“将来”何が起こるのか正確に知ることはできません。しかし、“過去”何が起きたのかは、確かな事実として知ることができます。イスラエルの“過去”には、エジプトの奴隷から救われた歴史がありました。それは、不信仰なイスラエルを見捨てずに約束の地へと導かれた真実な神との歩みです。“わざわい”と思われた捕囚の出来事は、不信仰な民を見捨てずに神に立ち返らせ“将来と希望”の道へと導くための、真実な神による祝福のご計画だったのです。現代のクリスチャン・霊におけるイスラエルが見つめる“過去”はどうでしょうか。そこには、出エジプトの出来事もさることながら、更に大きな祝福のご計画を見出すことができます。それは、イエス様の十字架の死と復活という確かな事実によって実現されたたましいの救いです。そして、私たちの“将来”には、御国という約束の地が備えられています。

 

将来を背にする恵み   進行方向へ背を向けた歩みは、不自由に思われるかもしれません。しかし、“わざわい”と思われる出来事であっても、過去・現在・将来・いつも変わらない真実な神による祝福のご計画であると“平安”をいただくことができます。また、見えない“将来”に不安になる必要もありません。「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろ(・・・)から「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く」(イザヤ3021)でしょう。主は、主に信頼する者を恵もうと待っておられます(3018)。それは、いのちの日の限り、いつくしみと恵みとが追いかけて(・・・・・)来る(・・)(236)祝福に満ちた歩みなのです。